東京オリンピック金メダリストのアンナ・キーセンホーファーはどんな数学者か?

一年の延期を経て開催された東京オリンピック。自転車競技の女子ロードレースで優勝したのは、数学の博士号を持った才媛だった。

皆さんは、東京オリンピック2日目に行われた女子のロードレースをご覧になっただろうか。私はネット中継で最初から最後まで視聴していた。レース展開は他のサイトが詳細に伝えているのでここでは割愛するが、オーストリア人として単身でレースに挑んだ30歳のアンナ・キーセンホーファー (Anna Kiesenhofer) 選手が、全ての下馬評を覆して金メダルを獲得した。

キーセンホーファー選手の優勝について、様々なことが驚きをもって伝えられた。レース開始と同時にアタックを仕掛けてそのまま逃げ切ってしまったこと、彼女がプロ選手ではなく(少なくとも世間的には)全く無名のアマチュアだったこと、そして、彼女が数学のPhD(博士号)を持つれっきとした現役の研究者であることが注目された。つまり、彼女は “Ms. Anna Kiesenhofer” ではなく “Dr. Anna Kiesenhofer” と表記しなければならない。

私も研究者の端くれであり、(今は休止しているけど)サイクリストだ。似たような境遇の選手がオリンピックという大舞台で優勝したことにとても感銘を受けた。そこで本ブログは、「研究者」としての彼女に焦点を当てたいと思う。

「ドクター」キーセンホーファーの研究キャリア

キーセンホーファー選手のLinkedInアカウントやその他2次ソースから彼女の経歴を調べてみると、彼女がエリートコースを歩んでいることが分かる。出身はウィーン工科大学。過去には、ドップラー効果の発見で有名なクリスチャン・ドップラーを輩出している。在学期間が2008年から2011年の3年間となっているため、飛び級卒業した可能性が高い(ソース求む)。

卒業後は、イギリスの名門であるケンブリッジ大学(エマニュエル・カレッジ)の大学院に進学。エマニュエル・カレッジの卒業生には、数学に多大な業績を残したジョン・ウォリスやハーバード大学の創立者として有名なジョン・ハーバードがいるのだから、如何に歴史がありかつ層が厚いかということが分かる。在学期間が2011年から2012年となっているため、やはり1年で卒業した可能性が高い。え、合ってるよね? 通常、修士課程(博士課程前期課程)を卒業するには2年を要するが、2011年10月に入学したとして卒業は2013年9月になるはず……。もしくは、2011年3月頃に入学して2012年9月卒業の1年半のパターンか? いずれにせよ、ここで数学の修士号を取得している。

ちなみに、ケンブリッジ大学時代のキーセンホーファー選手は、サイクリングクラブとトライアスロンクラブの両方に所属していたようだ。2018年のコモンウェルスゲームズ(イギリス連邦に所属する国の選手達が参加する4年に1度のスポーツの祭典)における自転車競技女子個人タイムトライアルで3位を獲得することになるヘイリー・シモンズや、アイアンマンディスタンスのトライアスロンで幾度も優勝するルーシー・ゴセージなどとチームメイトだったらしく、身近に強い選手がいたことで色々と学ぶことが多かったのではないだろうか。

博士課程(博士課程後期課程)は、スペインのカタルーニャ工科大学に進学。彼女は2012年から2016年の4年をかけて応用数学の博士号を取得している。意外かも知れないが、博士号取得に標準年限である3年以上かかることは珍しくない。理由は色々あるが、1番多いのはジャーナル(査読付きの雑誌論文)関連だ。博士号を取るためには第1著者として掲載されたジャーナルが何本か必要になるのだが、その査読に半年から1年かかったりするため、論文投稿の時期が遅かったり査読が遅れてしまうと、論文採択が卒業判定までに間に合わなかったということが起こり得るためだ。博士論文のタイトルは “Non-commutative integrable systems on b-symplectic manifolds” 。日本語だと「b-シンプレクティック多様体上の非可換可積分系」だろうか。

そして2017年から2021年現在まで、スイス連邦工科大学ローザンヌ校、通称EPFLで数学のポスドクとしてキーセンホーファー選手は働いている。一般人にはあまり有名ではないかもしれないが、EPFLは世界有数の工科大学として国際的に高い評価を得ており、数学者のキャリアとしては最高と言えるスタートだ。

ちなみにどうでもいい話だが、私は過去にEPFLへ留学しようと画策したことがある。日本とスイスの国交樹立150周年を記念した事業に応募したのだが、書類選考で落ちたとさ(笑) 行きたかったなぁ。

キーセンホーファー選手が行っている研究とは?

さて、ここからは彼女が一体どんな研究をしているのかについて見てみよう。彼女の専門は応用数学の1つである「非線形偏微分方程式」だ。ここで、大概の人は3つの疑問が頭に浮かんでいることだと思う。すなわち、「応用数学って何?」、「非線形って何?」、そして「(偏)微分方程式って何?」だ。1つずつ解説していこう。

応用数学

応用数学 (applied mathematics) とは、数学を他分野に活用することで様々な問題の解決を行ったり、それによりもたらされる数学自体のさらなる発展を主眼にした分野である。

例えば、現在ちまたで流行している機械学習は、学習モデルや学習過程を表すのに(ベイズ)確率論や数理最適化といった数学を使用しており、応用数学の1つと見做される。また、インターネットで安全に通信を行うために必要な暗号理論は素数などを扱う数論を必要とするし、ロボットやドローンをどのように動作させるかを決定する制御工学は微分方程式や差分方程式がバックグラウンドにあるため、応用数学の例として挙げられる。

キーセンホーファー選手が注目している非線形偏微分方程式も、熱の伝わり方や波の伝わり方といった物理現象が非線形偏微分方程式として表すことが出来るため、応用数学の1つに数えられる。

非線形

非線形性を説明するためには、線形性を説明した方が簡単である。なぜなら、非線形性とは「線形でないもの」を指すからだ。ここで、

任意の xyf(x + y) = f(x) + f(y)(加法性)、

任意の xaf(ax) = af(x)(斉次性)

の両方が成り立つとき、関数 f(x)線形であると言う。

例1:f(x) = 3x は線形の関数である。

なぜなら、f(x + y) = 3(x + y) = 3x + 3y = f(x) + f(y) だし、f(ax) = 3(ax) = a(3x) = af(x) が成り立つからだ。より具体的に数値を代入すると、f(3 + 2) = 3(3 + 2) = 15f(3) = 9, f(2) = 6, f(3) + f(2) = 15 になって一致することが分かる。ね、簡単でしょ?

例2:f(x) = x^2 は線形の関数ではない。非線形な関数である。

なぜなら、f(x + y) = (x + y)^2 = x^2 + 2xy + y^2 \neq  x^2 + y^2 = f(x) + f(y) で加法性を満たさないから非線形だ。ついでに、f(ax) = (ax)^2 = a^2 x^2 \neq  ax^2 = af(x) で斉次性も満たさないから、やっぱり非線形だ。ね、簡単でしょ?

線形性を持つと何が嬉しいかと言えば、計算が滅茶苦茶簡単になるということ。極端な話、足し算、引き算、かけ算、割り算の四則演算だけでどうにかなる。高校1年生の物理で等加速度直線運動を勉強した方が多いと思うが、あれは速度を求める式 v(t) = v_0 + at の内、v^\prime (t) = at が線形であり、これに初速を足すだけで現在の速度が求まる。つまり、四則演算だけで速度が求まるため、数学的に見るととても簡単なケースなのだ。

微分

微分なんか自分には関係無い! と思っているそこのあなた。そんなことはない。あなたは間違いなく普段から「微分っぽいもの」を使っている。

例えば、30分後に20キロメートル先の集合地点に自転車で向かわないといけない状況に陥ったとしよう。あなたはきっと 20 ÷ 0.5 = 40 という計算をして、時速40キロメートルで走らないと間に合わないと計算するはずだ。

これは、微分の基本的な考え方と全く同じである。関数の微分とは、限りなく0に近い単位時間(単位量)当たりの関数の変化量だ。速度は単位時間当たりに移動する距離=単位時間当たりの変化量だから、先ほどの計算は「(単位時間が0より大きい)微分っぽいもの」になっていることが分かる。実際、速度は距離の微分だ。

ちなみに、サイクリストが好んで使うパワーは単位時間当たりの仕事(エネルギー)を表している。すなわち、外部に成した仕事(外部に放出したエネルギー)の微分が仕事量=パワーだ。

微分方程式

微分方程式とは、関数そのものはどんな式をしているか分からないけど、その微分の式は分かっているときに得られる方程式のことだ。例えば、パワーメーターを使っている場合、時間 t におけるパワー P(t) は分かるけど外部に成した実際の仕事(エネルギー)W(t) は分からない(体の消費エネルギーと同値では無いことに注意)。これは、次のような微分方程式で表すことが出来る。

\displaystyle\frac{d}{dt} W(t) = P(t)

仮に、P(t) = 300 で一定値だとすると、

\displaystyle\frac{d}{dt} W(t) = 300

であるから、初期条件を W(0) = 0 としてこれを解くと、W(t) = W(0) + 300 t = 300 t となる。すなわち、未知だった関数 W(t) の具体的な式を得ることが出来た。

では、キーセンホーファー選手が専門としている非線形(偏)微分方程式とは何か?

先ほどはパワーが一定だとしたが、そんなことは通常あり得ない。ペダリングは円運動だから周期的に変動することが多いと考えれば、

\displaystyle\frac{d}{dt} W(t) = \alpha \sin \beta t + \gamma \cos \delta t(ただし、\alpha, \beta, \gamma, \delta は定数)

のように非線形関数である三角関数を使って表すのが自然だ。このように、関数 P(t) が非線形のときに微分方程式は非線形となる。

微分方程式は何故難しいのか?

ここで、一般に(非線形)微分方程式はそもそも解くことが出来るかどうかすら分からない、という困難性を抱えている。これには2つの意味がある。

  1. そもそも答えとなるような関数が存在するかどうか分からない。
  2. 我々が使える数学の道具の範囲内で、答えとなるような関数を書き表すことが出来るかどうか分からない。

例えば、xy = 1, y = 0 のような方程式を考えてみよう。この方程式は xy = x \cdot 0 = 0 \neq 1 となるため解が存在しない。微分方程式でも同じようなことが起こり得る。流体力学は今や自転車フレーム設計において重要な地位を占めるようになったが、流体の性質を表す偏微分方程式「ナビエ–ストークス方程式」は、解が存在するかどうかすら分かっていない。この問題を解いた人はとある研究所から100万ドルの懸賞金が貰えるミレニアム懸賞問題になっている。

次に、困難性の2つ目について説明しよう。まずは、2次方程式 ax^2 + bx + c = 0 の解が、a \neq 0 のとき、

ax^2 + a \displaystyle\frac{b}{a} x + c = 0 (操作1回目)

a \left(x^2 + \displaystyle\frac{b}{a} x \right) + c = 0 (操作2回目)

a \left(x + \displaystyle\frac{b}{2a} \right)^2 - \displaystyle\frac{b^2}{4a} + c = 0 (操作3回目)

――という操作を繰り返すことによって、最終的に以下のような解の公式

x = \displaystyle\frac{-b \pm \sqrt{b^2 - 4 ac}}{2a}

で答えを表すことが出来たことを思い出してみよう。これは、2次方程式が「四則演算と累乗根をとる操作を有限回繰り返すと(ある数学の道具の範囲内で)答えを求めることが出来る」問題だと言い換えることが出来る。しかし、5次方程式 a_5 x^5 + a_4 x^4 + a_3 x^3 + a_2 x^2 + a_1 x + a_0 = 0, (a_5 \neq 0) は四則演算と累乗根をとる操作を繰り返しても答えを求めることが出来ない。つまり、どう頑張っても解の公式のように(ある数学の道具の範囲内で)答えを書き下すことが出来ないのだ。

似たような議論が微分方程式でも出来る。微分方程式の場合、「四則演算、微分、不定積分、逆関数を取る、代数方程式を解くという操作を有限回繰り返すと答えを求めることが出来る」問題と、そうではない問題が存在する。前者の問題、すなわち有限回の操作で答えを求めることが出来る微分方程式の問題を「可積分系」と言う。そう、キーセンホーファー選手の博士論文タイトルに含まれるキーワードの1つだ。

従って、キーセンホーファー選手が行っている研究とは「どのような種類の非線形偏微分方程式が解けるのかを解き明かしていく研究」だと言える。

なぜプロのサイクリストではなくプロの研究者を選んだのか?

先に結論を書いておくと、私には理由が分からない。

博士号取得のために研究と並行して、ハードな自転車トレーニングも行っていたことは容易に想像がつく。事実、2016年にはコパ・デ・エスパーニャ(スペインで開催されるアマチュア選手権)で勝利しているし、その年の9月に開催されたツール・ド・アルデーシュ(フランスで開催される国際ステージレース)では、魔の山モンヴァントゥーで勝利、一時は総合トップに踊り出ていた。翌ステージで逆転されるも、最終的に総合2位でフィニッシュしている。この時点で実力は折り紙付きだ。

キーセンホーファー選手は、博士号取得後の2017年にロット・スーダルとプロ契約を交わすものの、わずか1年でそのキャリアに終止符を打っている。理由は分からない。しかし、東京オリンピックで金メダルを獲得した後に残したコメントがヒントになるだろう――

若くて何も知らない選手には “これをすれば上手くいく” とコーチや周りの人間に言われる危険がつきまとう。私も一時それを信じ、そして被害者の1人だった。

シクロワイアードより引用 (https://www.cyclowired.jp/news/node/350652)

恐らく、考える頭を持つキーセンホーファー選手だけに、コーチから言い渡されるトレーニング内容、ひいては一般化されたトレーニング理論そのものに重大な疑問を持っていたのではないか。そして、結果が出なかったことでそれが確信に変わり、見切りをつけたのだと推測する。

その一方で、プロの研究者としてのキャリアも諦めたくなかったのかもしれない。プロの契約更新をしないと決めてから就活したのか、EPFLに就職が決まったから自転車プロのキャリアを捨てたのか、この辺の時系列は彼女に直接インタビューして聞いてみたいものだ。

まとめ

アンナ・キーセンフォーファー選手について、研究者としての側面を取り上げた。彼女の研究内容は偏微分方程式の可解性についてであり、理解することは容易ではない。しかし、彼女の研究は数学・物理学の発展に貢献するものであり、今後の更なる活躍が期待される。

最後に、「どうしてキーセンホーファー選手は東京オリンピックで勝てたのか?」について考えてみたい。

オランダチームのコミュニケーション不足など様々な要因が絡んでいたのは間違いないが、その中の1つに研究者としての「飽くなき探究心」があったのではないか。チームメイトが1人もいない中で勝つにはどうすればいいのか、東京の酷暑の中で最高のパフォーマンスを発揮するにはどうすればいいか(実際、彼女はオリンピックの1年前から深部体温とパフォーマンスについて独自に検証していたようだ)、そういったことを1つ1つ探求し、小さな準備を重ねていったからこそ、勝利の女神はキーセンホーファー選手に微笑んだのだと思う。

今後についてはわからない。だけどいまの仕事を続け、これまでと同じように走るつもりだ。もちろん自信という面では、この勝利は私を違う人間に変えるだろう。

シクロワイアードより引用 (https://www.cyclowired.jp/news/node/350652)

サイクリングと研究と、キーセンホーファー選手の二刀流は今後も注目だ。

最後に

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